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2016-04-14(Thu)

「サンドラの週末」「凶悪」

サンドラの週末

マリオン・コティヤール主演、2014年の
フランス・イタリア・ベルギー合同制作作品。

マリオン・コティヤールが好きなんだよね。
陰のある美人で、雰囲気がいいです。

この映画の物語はとてもシンプルで、凝ったものではありません。
主人公であるサンドラが病気を患い、回復して復職しようとしたら
突然解雇を申し入れられてしまう。
職場で、サンドラの復職をするか、従業員にボーナスを出すか
どっちかを選べっていう投票がなされたからなんですが、
サンドラの同僚が伝えにくるんです。
主任が圧力をかけて、ボーナスを選べって言われてるんだと。

サンドラが患っていたのはうつ病でして、
これでまた落ち込んで、薬をいっぱい飲んじゃうんですよね。
だけど夫がいて、子供がいて、サンドラが働かないと
家賃にも困ってしまうような経済状態だし、
大体一方的に解雇するなんておかしいよと、
夫は戦うよう促してきます。
まずは会社に行って社長に訴え、
じゃあもう一度投票しなおそうという話に。
過半数が復職に賛成してくれたら戻れるけど、
そのためにはみんな、ボーナスをあきらめてもらわねばならないっていう。
月曜に行われる投票のために、サンドラは週末、同僚たちの家を回ります。


それだけの話なんだけど、重たくってねえー。

働き方について欧米に学べ、なんてよく言いますけど
解雇なんかはあちらの方が厳しいよねって思っちゃう。

自分の復職とボーナス、みんなが求めているものがなにか、
サンドラはよくわかっていて、
自分同様みんなも苦しいはずだと思いながら、
ひとりひとりの家をまわっていきます。

彼女に味方してくれる人もいれば、
もうしわけないと言いつつ、イヤだという気持ちを隠そうともしない
そんな人もいます。

もちろん、ボーナスがいいよね……とサンドラは相手を責めません。
それでもどうか、復職させてほしい。
相手に良心、同情、仲間意識に訴えていくんですけど
これ実際にやれと言われたら辛いだろうなあって。

最後は割といい結果に終わるんですけど、
サンドラはスッキリした顔で去っていきます。
失っていた自信を取り戻し、やれるだけやったという気持ちが
彼女を強くしたんだろうなって。

人生という厳しい戦いの連続の中でどう生きていくべきか。
そんなテーマを感じる映画でした。見てよかった。


もう一本
「凶悪」

2013年、山田孝之主演の邦画。
実話を基にしたというこの世の地獄のような話です。
もとになった話はこちら(Amazonへリンク)

主演は山田孝之ですが、こちらは事件の取材をする記者の役。
この映画で輝いているのは、
「凶悪」というタイトルのもとになった二人の人物を演じている
ピエール瀧と、リリー・フランキーでしょうね。
山田くんもすごくいいですけども、
ピエール瀧とリリー・フランキーがもうヤバい。

話の始まりは、新潮45に届いた一通の手紙で、
死刑の判決を出されながらただいま上告中の服役囚、
ヤクザの組長であった須藤から送られてきたもの。

まだ警察に話していない3件の余罪について話すから、
自分と組んでいた「先生」を追い詰めるために
記事にしてもらえないか、と持ち掛けられます。

人を殺し、騙し、金を巻き上げるという同じ罪を犯したのに
自分だけが死刑を申し渡され、
先生はのうのうと外の世界で暮らしているのは許せない。
そういう理由で、事件について話すから
取材をして世間に公表してほしいと。

須藤は非常に良心にかけた男で、暴力的なんです。
気に入った人間にはすごく目をかけるんだけど
そうじゃない相手には容赦がない。すぐに殺しちゃう。

先生は悪知恵の働く男で、
身寄りがなかったり、疎んじられている老人に目をつけ
彼らの持っている財産を奪い取ろうと考えている。

先生の方は実行力がない。
須藤は考えが足りないけど、なんでもできる。
二人が出会うと恐ろしい化学反応が起きて、
邪魔な人間は全員ひどい目にあって葬り去られていくわけです。

二人が起こした事件の残虐さが存分に描かれていて、
もう目をそむけたくなるような内容です。
この二人の演技が非常に怖い。
ピエール瀧は迫力があり、リリー・フランキーは不気味な恐ろしさで
暴力を思う存分楽しんでる感がすごい。

何件もの事件について告白され、
記者である主人公藤井は取りつかれたように調査していきます。
家庭も顧みず、良心のかけらもない行いについて
裏付けをとり、真実に迫り、最後は記事にして発表するわけです。
それで「先生」も逮捕され、裁かれる……わけなんですが。


二人の行いの恐ろしさ、良心をもたない人間の無慈悲さなんかとともに
そういった暗い穴を覗き込んでいるうちに
うっかりひきつけられたり、取り込まれたりしそうになる
人の心の危うさについても描かれているのかなと思います。

世の中には本当に凶悪な事件、人間が存在しますが
些細なところから始まって、ブレーキがきかずに
どんどんエスカレートしていってしまうっていう
そういう心のありようがわかるというかね。

牧師に出会って改心したという言葉ですら白々しく感じられる
憎しみの深さと、その強烈さに圧倒され、心がゆがむ感じ。

世の中で一番不思議なのはやっぱり、人の心なんじゃないかなと
思いました。はい。月並みだけど。
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2016-04-08(Fri)

「八日目」

「八日目」

1996年フランス映画。

タイトルの八日目は、聖書からきたもの。
神が世界を作るのに、七日かけるんですよね。
「光あれ」から始まって、大地と海と、人間を作って、七日目はお休み。
だから一週間は七日で、日曜日は安息日なんですが、
タイトルの「八日目」で作られたのは本作の主人公というか
なんでしょうね。人生における「不幸」をさすのかな。

神に作られた最初の人間であるアダムと、
その妻であるイブは、言いつけを破ったせいで
エデンの園を追われます。
満ち足りた楽園から追い出され、そこからは
ありとあらゆる苦難が二人を待っているぞと。


この映画の主人公は二人。
妻と娘に出て行かれた仕事人間のアリーと、
ダウン症の青年ジョルジュです。

アリーは娘たちと妻を愛しているのに、
うまくやれなくて、仕事に追われすぎて、
とうとう愛想をつかされ「来ないでくれ」と言われたところ。

ジョルジュは、窮屈で自由がなくて楽しくない施設がイヤで、
大好きなママのところに帰ろうと飛び出してしまったところ。

行き詰ったアリーは休暇をとろうと車を走らせていて、
うっかりジョルジュの犬を轢いてしまう。
車に乗せて、目的地へ送ろうとするも、
ジョルジュはちょっとばかり頑固でいうことを聞かない。
そこから始まる、二人の不思議な旅の話です。



この映画ほど、見る人によって印象が違うものもないんじゃないかな。
まず、ダウン症の家族がいる人は、辛いと思います。
なんらかの障害を抱える家族がいる人も辛いかと。

それから、ダウン症についての知識があるかないか。

障害を抱える人の描き方も結構容赦がなくて
そのあたりをどう感じるかも相当違うんじゃないかな。

作中では「蒙古症」と表現されていましたが、
これはダウン症の古い呼び方で、
ジョルジュがモンゴルに思いをはせるシーンがあるので
そのまま使われているんだなと理解しました。
ダウン症の人は外見がみな同じ風になるので(個人差はあるけど)
こんな風に呼ばれた時代があったのでしょう。

ジョルジュは実際にダウン症の方が演じられていて、
すごく説得力のある映像に仕上がったなとまずは感心しました。

でね、よくある、配慮とか、悪く描かないでおこう、
美談にしようという意識が薄く、
逆に心配になるほどリアルな描かれ方でした。

ちゃんと会話もでき、ユーモアも理解し、歌い踊り、
やさしさもある。けど、ごく普通とはいかない。
生まれつきの病を抱えた苦悩がこれ以上なくストレートに描かれていてね。
本当になんかもう、人間ってどうしてこんなに不完全なのかなと。

エデンの園を追われるほどの罪を犯したとして、
それでもこんなに辛い運命を用意されなきゃならんかなと
神の無情さを思わずにはいられません。

「チョコレート・ドーナツ」でも実際にダウン症の俳優が演じて
最後に本当に辛い運命を辿って、映画だっていうのに悲しくてたまらなかったけど、
この「八日目」も本当に辛い。


仕事人間のアリーは、ジョルジュに振り回されながらも、
人間らしさとはなんなのかを彼を通じて見出していきます。
最後には自分を縛っていた鎖をといて、
妻と娘のもとへ帰っていけるんですがね。

一方のジョルジュは、会いたかったママが既に亡くなっていて、
一番の望みである暖かい家庭を手にできないんです。
姉もいるけれど、彼女にはもう彼女の家庭がある。
夫と二人の子供がいて、ジョルジュの世話まではできない。
ジョルジュは色々とできる男ではあるんだけど、
時々衝動を抑えられず、我慢ができないと床に倒れて暴れてしまう。

この辺は、知的な障害のある人間がどうやって育てられたか、
適切な療育を受けたか、どのくらい成長できたか
非常に個人差がある部分で、
ダウン症の人がみんなああいう風だとは思わないでほしいけど、
だけど、あんな風にキレちゃうタイプになってしまう場合もあって、
人生はままならぬものだってことなんですよね。

病を抱えているからという理由で親がかわいがりすぎて、
そのせいでほかの兄弟の扱いが悪くなったりすることは現実にあって、
ジョルジュのお姉さんもそれについて少し訴えます。

ジョルジュは悪くないけど、お姉さんも悪くない。
お母さんの気持ちもわかる。でもやりきれない思いは消えない。

障碍者を取り巻く事情がリアルでね。本当にね。
私もそんなに詳しいわけではないんですが、
ちょいちょい支援の必要なこどもとその家庭を見てきて、
親の行動が行き過ぎていたり、逆に足りなかったり、
どの程度受け止め、受け入れ、守ろうとするかは
本当にみんな違っていて、全員が完璧にはなれないんです。

仕方ないし、理解できるし、やりきれない。
家族という名の鎖の重さがね。
幸せばっかりじゃなくて、不幸もあって、
それをどう受け止めるかはその人次第だし、
キャパもみんな違うしって話でね。
本当に辛いんだよね。


ジョルジュは自分によくしてくれるアリーに希望を見出すけれど、
自分の心と対話している間に気がついてしまう。
彼と暮らしたら楽しいと思うけど、はっきりとOKをもらっていないと。

アリーも、自分のこどもすら幸せにできないのに、
ジョルジュの人生まで受け止められないよと答える。

あくまでも他人として、友人としてなら付き合えるけれど、
ジョルジュの孤独のすべてまでは引き受けられないわけです。

その思いを全部理解して、
きれいな女性が好きで、幸せな結婚をしたいけど、
その辺にいる「普通の」男と自分は違うともはっきり理解して、

だったら自分が一番幸せになるにはどうしたらいいのか?
ジョルジュはかなり思い切った決断をします。


最後に流れる優しい歌は、ジョルジュの夢なんだろうなって。
先日みた「ハッピーボイス・キラー」とかなり近い話でした。

人生はどうしてこんなにうまくいかないのかなって
最後はじゃあーっと涙が出てきてまいりました。

だけどアリーは自分が感じた「人間らしさ」を手に入れて
幸せに向かって歩き始めて、ほんとそれが救いになったな。

あなたはどう感じますか?って
映画に試されている気分になりました。

なんにもできないんだけどね。
実際、障害のある人にいきなり抱きつかれたら
間違いなく逃げると思うし。

罪悪感と、当たり前と、やさしさと、厳しさと。
生きるのって本当に難しい。
そんなことを思いました。重たい映画だった。


2015-11-26(Thu)

「潜水服は蝶の夢を見る」

潜水服は蝶の夢を見る

ELLEの編集長であったジャン=ドミニク・ボビーの書いた自伝を映画化したもの。
公式サイトには「愛の感動作」って書いてあるけど、
愛の感動作ではないと思います。これは。
もちろん、ジャン=ドーを救ったのは愛なんですけども、
本当に彼を救ったのは間違いなく、彼自身の強さだったと思うので。


目覚めると、視界が歪んで体が動かず、声も出せない。
突然の病で突如体の自由を失ったものの、意識ははっきりしている。
動かせるのは唯一、左目だけ。
そんな絶望に沈んだところから、なんとか希望を見出して自伝を書き上げるまで、
ジャン=ドミニクのたどった過酷な運命について描かれています。

意志ははっきり残っているのに体がまったく動かない、
ロックトインシンドローム(閉じ込め症候群)に陥ってしまったという悲劇。
人は自分の命とどう向き合い、折り合いをつけていくのか、
経緯が丁寧に描かれていたなあと思います。

治らない病になってしまったのとは違う、
体の一部を失ってしまったわけでもない。
充実した人生を歩んできて、仕事も地位もあり、家族もあったのに、
突然肉体だけを失ってしまう。
自分から命を絶てもせず、周囲から暖かい言葉ばかりを投げられ、
自暴自棄になることすら許されない状況って、凄まじいものがあると思います。

こうなると、ゆっくりと立ち直るしかないわけで。

たくさんあきらめて、たくさん思い直して、たくさん心で舌打ちをして、
最後には自分の才能を諦めず、瞬きだけで言葉を綴っていくっていう。

あらすじとか細かいことは書きたくないです。
もし興味がわいたなら、実際に見た方がよいとおもいますので。

最近障碍児についていろいろと意見が飛び交っておりましたが、
出生前診断については当事者の判断にゆだねるとして、
人間ってなんだかんだ不完全で、ちょっとしたことで体が動かなくなったり、
機能が失われたりするんですよね。
病気だけではなく、ケガ、事故、どんなに気を付けていても、誰かの油断とか天災で、
どうにもならないことってあると思うんです。

私の家族にも、病気で突然体の自由を失った人間がおります。
毎日車いすを押していると、好奇の目に晒されたり、やたらと憐れまれたり、
思わぬ親切を受けたり、本当にいろいろ起きるんですよね。
当事者ではありませんが、そばにいる人間としてどうしても考えさせられます。

健康に生まれて、健康に生きていても、明日どうなっているかわからない。
いつ誰の世話になるかわからないんだから、
障碍者を受け入れるっていうのは、
将来の自分を守ることにつながるんじゃないかなと、思います。

周囲にある、煩わしいと思える存在に、ほんの少しでもいいから
理解を持とうと思って生きていくべきなんじゃないすかね……。

最近はなんでも便利になって、即席、速攻の世の中ですけど、
面倒なもの、自分とは違うものを全部排除していったら、
世界はもっと殺伐とするんじゃないでしょうか。

なんてことまで考えてしまいました。
井上雄彦先生の「リアル」でも、人生の途中で障碍を負った人たちがよく描かれています。

見てよかったとしみじみ思える映画でした。

2015-11-13(Fri)

「薔薇の名前」

「薔薇の名前」

フランス制作、舞台はイタリア、でも言語は英語のこの映画。
1300年代のイタリアの修道院が舞台の、不可解な連続殺人事件を描いたものです。
主演はショーン・コネリー。クリスチャン・スレーターが若い。
1986年の映画なのですが、もうショーン・コネリーが渋カッコいいっていう。
当時55,6歳かな。修道士の役なのですが、キレ者の探偵ポジションで、
弟子の若い男の子を連れて陰鬱な修道院を捜査する様が似合いすぎて超大変。

原作はイタリアの小説で、かなり難解な内容だと
映画のあらすじにも表記されていたので、真面目に鑑賞してみました。

キリスト教の歴史がいかに複雑なものか、というのが土台になっているかな。
今でも宗派や考え方の違いがたくさんあって、相容れない方々もいらっしゃると思いますが
はるか昔となればそれはもっと原始的・野蛮な扱いになりまして……。

あらすじは簡潔にまとめるのが難しいし、
最終的な殺人の犯人を書くとかなりヤボだと思うので割愛しますが

詳しくはWikiあたりを参考にされるといいかと。

なかなか修道院で男性しかいない場所をえがいたものってないよな、というのと
キリスト教について多少知っていないと理解はなかなか難しそうだなっていうのと。

タイトルの「薔薇の名前」について、どうしてそんなタイトルなのかは最後にやっと判明。
寒々しい修道院には花なんか咲いていなくて、なんだろなーと。
でも最後にわかった時に、なんと美しいタイトリングなのだろうと感心しました。

とはいえ、途中がすごくアレですけどね。残酷表現まったなしです。はい。

宗教観というのはそれぞれにあっていいものだし、
人生を支えるひとつのエッセンスになりうるものだと思いますが、
行き過ぎた信仰はなかなかどうして、猛毒と化してしまうのだなあと。

狂信者という言葉で片付けるのは簡単ですが、
人の心の強さ、弱さについて考える作品となりました。見て良かった。

2015-09-02(Wed)

「ゴール・オブ・ザ・デッド」

「ゴール・オブ・ザ・デッド」

フランス産ゾンビ映画。
あらすじがあんまりな感じなので観てみました。

かつてはスター選手として名を馳せた主人公サム。
ところが色々あった挙句地元を捨て、パリにいったもので
故郷では相当な嫌われ者に。
そろそろ引退間近になって、久しぶりに試合のために故郷へ凱旋するが、
サムに恨みを持つ元・親友が、試合のために飲んだヘンテコな薬のせいで
ゾンビになったからさあ大変!

という話。

ツッコミどころが多すぎて、これがフランスの感じなのかなあと思いました。
映像の編集とか、見せ方はいいんだけど。
シナリオとか後半急に挟まれてくるギャグとかが「えっ?」ってなる感じ。
とにかく、映像はいいのに「こまけえことはどうでもいいんだな」って
思わされて、でもそれでちょっと笑ってしまったw

最初にゾンビ化してしまうのは、地元サッカー選手のジャノなんですが、
ドーピングだよーって注射を打つ(この注射の打ち方がまず衝撃的に雑)
突然発症からの、謎の白い液体を吐きまくり。
この吐瀉物で他の人もゾンビ化しちゃうんだけど、
ちょっとげえって吐き出すんじゃなくて、もうジャアジャアジャアジャア
顔にかけまくるんですよ……。

サムたちのチームがバスでやってくる時に、まずジャノをはねる→気づかず
選手を一人置いて行ってしまう→気づかず
ジャノがいないからとりあえず試合始めちゃおう!
あともう、フーリガンもどきの連中も酷いw
試合中のピッチがとにかく暗い。

ゾンビはなんとなく、生前好きだったものにこだわる、みたいな描写はあるんだけど
ええ、そうなるかあ?って感じで展開していき、
もうこの斜め上具合を楽しむしかないのかなって感じかなあ……?
ショーンオブザデッドの影響は、かなりあるのではないかと思いました。
途中で唐突に激しくグロを見せてきたりとかね。

ゾンビ大好きでなんでもみておきたい!って人以外は
そんなに見なくてもいいんじゃないかな……って感じでした。