1948年、イギリスの作品。
すごいな、1948年って……というのがまず出てくる一本。
アンデルセンの童話「赤い靴」を劇中のバレエの舞台として取り上げ、
芸術に生きる人間の苦悩を描いた作品、ってことでいいのかな。
わたしは「コーラスライン」がものすごく好きなんですが、
こちらはブロードウェイの舞台に立つことを夢見るダンサーたちが
バックダンサーの仕事を得るためにオーディションを受ける話。
このオーディションが少し変わっていて、踊りの技術だけではなく
これまでの人生や、ダンサー個人がどんな人間なのか
掘り下げていくという内容なんですよね。
オーディションを受けているダンサーの一人に、ダイアナという女性がいるんですが
彼女は「赤い靴を100回くらい見た」と話すんです。
大好きで、「赤い靴」を見てダンサーになろうと思ったと。
それで私も見てみたかったんですが、ようやく機会に恵まれました。
この作品は、まだ若いダンサーヴィッキーと作曲家のクラスターが、
とあるバレエ団に入るところから始まります。
バレエ団のオーナーであるレルモントフは才能のありそうな人間を集め、
これぞという人物を育てているんですが、
クラスターもヴィッキーも目をかけられ、主役に抜擢され、曲を書き、
「赤い靴」の舞台を完成させるのです。
「赤い靴」はアンデルセンの童話がもとになっていて、
ある貧しい娘がいて、自分の靴を持っていない。
それをある婦人が見て気の毒に思い、赤い靴を買ってあげるという話なんですが、
娘はその靴を気に入って、葬式にも履いていってしまうんですよね。
その場に合わないものなのに脱ごうとせず、最後には脱げなくなってしまい、
足首から一緒に切り落とされてしまう。そういう話なんです。
ヴィッキーはバレエで世に出たいと強く思っていて、
踊ることは生きることと言い切る娘さんなんですが、
彼女は赤い靴を手に入れて、それを履き続けるか、それとも脱ぐのか、
迷いに迷ってどちらも選べずにすべてを失ってしまう。そういう話でした。
バレエのシーンはとても美しく、幻想的でね。
そりゃダイアナも憧れますわ……と納得いく内容。
ヴィッキーは自分を理解し、曲を書くためのインスピレーションの源とし、
彼女の踊りをより美しく見せる音楽を作るクラスターを愛してしまいます。
クラスターも同様に、美しく才能あふれるヴィッキーを愛してしまう。
だけど、二人のプロデューサーであるレルモントフはそれを許さない。
彼は、芸術と愛は両立できないといってヴィッキーを責めます。
バレエダンサーでいるためには、ひたすらに芸の道を歩むしかないと。
結婚して、子供を産んで、家庭に収まって。そんな平凡な道はダメだと。
レルモントフの言い分も、ちょっとはわかるんだよなあ!っていうのがね。
古い時代の作品で、男女の在り方について現代と同じように語ることはできない
そういう前提があってもなお、ちょっとわかるんです。
本当に非凡な、たぐいまれな才能を持った人間は、
芸術だけに身を捧げるべきだ。
そういう生き方をしなければ、才能はみるみる失われてしまうかもしれないわけで。
特に体を使った芸術をする、女性の場合。
老化であるとか、出産であるとか、邪魔でしかないという見方もできるわけです。
ヴィッキーもそれをわかっていて、
バレエへの強い思いが心にあって、
それでもクラスターへの愛も確実にあって、
舞台をとるか、愛をとるか。
本当はね、クラスターがちょっとだけ折れたらよかったんでしょうけど。
この舞台だけならいいよと言える寛大さがあれば、結果は違っていたかもしれない。
だけど人間は嫉妬や、プライドや、意地や、苛立ちにとらわれるもので、
その結果非常にやるせない結末を迎えてしまうという。
普段、自分にはなにもない。何の才能も、確固たる愛がないと思っている人がいたら
どれだけヴィッキーが幸せに見えるだろうかとも思いました。
一人の人生の上に、あまりにも多くのものがありすぎた。
贅沢極まりない悲劇という見方もできる。
自分を通そうとしすぎて女神を失ったレルモントフとクラスター。
多くを持ちすぎ、なにを手放すか選べなかったヴィッキー。
多くを持っていれば幸せなのかというと、そうではない。
人生の妙味が詰まった作品なんじゃないでしょうか。
最後に、ヴィッキーの影を追うようにライトだけが動く舞台を、
観客はどんな気持ちで見たんでしょうね。
いろいろと考えることのできる映画でした。見てよかった。
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